皆さん、こんにちは。
本日もご訪問ありがとうございます。
お盆のラッシュも終わり、今日が最後のお盆休みだという人もいらっしゃるのではないでしょうか。
せっかくのお休みですから、羽を伸ばしたいところですね。
さて、今日のテーマは「良書をよむときの心構えについて」です。
熟とは
今の学ぶ所の*四書五経は、皆聖人の学なり。然るに善の善に至らざるは、熟の一字を闕くなり。熟とは口にて読み、読みて熟せざれば心にて思ひ、思ひて熟せざれば行ふ。行うて又思ひ、思ひて又読む。誠に然らば善の善たること疑ひなし。
安政三年六月十日「講孟箚記」【訳】今人々が学んでいる四書五経は、孔子、孟子が説いた教えを記したものである。それなのに、善の善なる境地に達することができないのは、「熟」という一字を欠いているからである。「熟」とは、口で読み、読んで熟さないなら、思索、つまり、物事のすじみちを立てて深く心で考え、思索しても熟さないならば行動する。行動して、また、思索し、思索してまた読む。本当にこのように努力すれば、「熟」して、善の善なる境地に達することは、疑いないことである。
*四書とは、『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』。五経は、『易経』・『詩経』・『書経』・『春秋』・『礼記』をいう。(『吉田松陰一日一言』P.105より)
四書五経を読んでいる人がどれだけいるかは知りませんが、人生で大事なことは数ある良書に書かれています。
ここでいう良書とは、誰でも書けるようなビジネス本のことではありません。
聖人の書いた教典のことです。
聖人の書き記したものだけでなく、後世に残るように弟子が書き記したものも含みます。多くの場合は、弟子が書き記したものであることが多いでしょう。
そこに「善の善なる境地に達する」ヒントがたくさん記されています。
聖書、仏典、儒教、古事記に日本書紀、これら人類の叡智といってもよい作品を読まずして、人生について深く語ることなど出来ないのです。
そして、読んだだけでは足らないということがここでは指摘されています。
私たちが教典を読んでも悟ることができないのは、「熟」という一字を欠いているからだというわけです。
“熟とは口にて読み、読みて熟せざれば心にて思ひ、思ひて熟せざれば行ふ。行うて又思ひ、思ひて又読む。”
読んで実践し、さらには思索して、再読後にまた実践する。
その繰り返しの中に悟りの境地があるという話です。
読んでいるだけでは力にならない。実践してこそ良書が生きてくる。