皆さん、こんばんは。

今日もご訪問下さいまして、ありがとうございます。

最近雑談が多かったので、久しぶりにまじめに書いていきたいと思います。

本日のテーマは「内に宿る神様」についての話です。


先日、「神様や仏様というと、何だか自分とはかけ離れた存在で、いるのかいないのかも良くわからないし、あるのかないのかもはっきりしない。そう考えていらっしゃる方も世の中には多いのではないかと思います。」なんてことをベースに記事を書きました。

事実、そう考えている人は多いのではないかと思います。

目に見えないってことは、それだけ分かりにくいものだということでもあるからです。

目に見えないけど確かにある。

そう言われてもピンと来ない人もいるのではないでしょうか。

今日は、そんな「目に見えないけど確かにあるもの」について、皆さんで確認していきたいと考えています。

身近な例で言えば、目に見えないけど確かにあるものなんて山ほどあります。

呼吸している時に吸っている空気。

携帯電話の電波とか、声の振動だって目に見えるものではありません。

宇宙には目に見えないダークマターで一杯だなんて言われていますし、太陽の光だって全部が見えているわけではありません。

地球上には人間よりも目が見える生物がたくさんいますから、その生物の見えている世界と人間の見ている世界は違うことでしょう。

また、そんな物質的なものだけでなくて、物質以外の目に見えないものだってたくさんあります。

知性とか、愛情とか、人間に秘められている力は目に見えません。

人から受けている恩恵とか、自然界から受けている恩恵だって目には見えないことでしょう。

目の前の人が考えていることだって目には見えない。

では、目に見えないから「ない」のかというと、ほとんどの場合そうではないわけです。

むしろ、目に見えないけど「ある」もののほうが多いのかもしれません。

しかし、残念なことに人間は目に見えるものを信じてしまう傾向が強いのです。

それが確実に存在して、確固たるものであると思ってしまう。

自分の肉体だってそうです。

いつまでもあるものだと勘違いしてしまいます。

事実は違います。

目に見えるものの大半は移り変わっていくものです。

いつか消え滅びてしまう。自分の肉体もいつか灰になってしまう。

そんないつかなくなってしまうものを本物と呼ぶことはできません。

本物は消え滅びることがない。

決して消えない。

私たちの存在の奥の奥に、絶対に消えないものがある。

それを神といい仏というのです。

人間には完全なる神、完全なる仏が例外無く宿っている。

なぜそれを信じうるかといえば、人間には「完全を求める心」が心の奥底に必ず存在するからです。

吾々は、その完全なる神、仏の導きに従うとき、喜びを感じ、幸せを感ずる。

そういう存在であるわけです。

内在の神性に委せ切れ
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、ただ神に全面的にまかせ切ったとき完全になると云うことを説いたのである。「明日のことを思い煩うな、明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、「内」と「外」とから起るのである。この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。

(『新版光明法語 道の巻』P.98より)