常識人間とあやふやな人生観
人間誰しも何かを信じ、生きている。実に当たり前の話である。
たとえば、「お店に入ってお金を出し、物を買う」
こんな単純な行動も、信頼があって初めて成り立つ。
「お金でものが買える」と皆で信じているから買い物が出来る。
つまり、世の中は、「信じる」ということで成り立っているわけだ。
ところが、信じる対象が「神」や「仏」という話になると、何故か日本の中ではタブー視される。海外では当たり前の話も、日本の中では当たり前ではなくなってしまうのだ。
その理由は、様々な事件や怪しい団体の出現によって、日本人が「カルトや詐欺商法と良き宗教の区別ができなくなってしまった」からだと筆者は思う。
正しき判断のためには、正しい情報が必要なのに、怪しい団体のおかげで人間として必要な情報すら怪しく思えてしまう。
世の中には、人を救う良き宗教が数多くあるにもかかわらず、実にもったいない話だと筆者は思う。
というのも、宗教を知らないということは、幸せの根源を知らないということで、信念や行動の明確な基準を持っていないということだからである。
世の中には「自分自身を信じている」という人も多いが、そういう人はこれまで生きてきた自分の常識を信じていることが多い。
「私は無宗教だ。何も信じていない。」という人も「自分は無宗教だ」ということを信じている。そして、その自分というものは、たいてい常識を信じているものである。
常識だけを信じている人間は、いくら自分の常識があったとしても、世間がどう言うか、周りがどう考えるかによって考え方が変わる。
世間なんて10年経てば色々と変わってしまうため、常識人間は、どうしてもあやふやな人生観になりやすいのである。
常識のない人間はもちろん問題だが、常識だけを信じている人間もこれまた問題なのだ。