シュプスタ

子は親の背中を見て育つ[教育②]

昨日、iPadと子供の教育について考えた。

筆者が昨日書いた結論は、「ルールなく子供にiPadを渡して勉強させても、本当の教育にはならない」というものだ。

その理由の一つは、成長段階にある子供にiPadを渡しても、iPadを「活用する」のではなく、iPadに「使われてしまう」と考えているからである。

たとえば、子供との約束で「ゲームは1時間まで」と決めても、なかなか守れないことが多い。

筆者も昔経験があるが、楽しすぎてついつい隠れてやってしまうわけだ。

なぜそうなるのかといえば、子供はゲームのコントローラーを持っていても、実際は「ゲームにコントロールされている」ことが多いからである。

これはゲームに限らず、おもちゃ全般にいえる。

ゲームやおもちゃは大抵大人が作り、大人の思惑通りに売れていく。

子供は大人のコントロール下にあり、責任も大人にある。

つまり、子供が「コントロールされてしまう」という環境は、大人が作っているということになる。

したがって、親は自分のコントロール下の子供に「何を与えるのか」について、よくよく吟味しておく必要があると思う。

子供がゲームをやめないのは、子供のせいではなく、最終的には買い与えた親の責任である。

買い与えておいて、守れなそうな約束、無理難題を子供に押し付けるようではいけない。

色々なおもちゃを与える前に、予めその影響について考えておくと良いだろう。

漫画、テレビ、雑誌、ゲーム。

人はあらゆる媒体から精神的な影響(教育)を受ける。

子供に「何を与えるか」を考えるのは、そのほとんどが親の役割であり、それによって「子供がどう育つか」は9割以上が親の責任である。

「子は親の背中を見て育つ」とはよく言ったもので、背中だけでなく、頭から足まで、買い与えるもの、言動・行動、すべて見ていると思ったほうがよい。

要するに、親の心と行動を見事に反映しているのが子供なのである。

そのため、子供の教育を考えたときに最も大事なのは、その「親の教育」だといえる。

もしも、自分が親の立場であれば、子供のことはすべて「自分に責任がある」と思っておいたほうがよい。

さらにいうと、大人が人生の素晴らしさを子供に語り、勉強の楽しさを自らの行動で教えれば、iPad導入の有無に関わらず、子供は「自然に伸び伸び」勉強するものなのである。

しっかりとした理念やルールを

さて、話を元に戻そう。

iPadやゲームが普通のおもちゃと違うのは、それがデジタルの機械で、バーチャル性が強いということだ。

そこに一つの問題があると筆者は考えている。

昨日も書いたように、バーチャルとリアルが区別できず、周りを考えられないようになってしまっては「本当の教育」とはいえない。

したがって、親や教師が何も考えずに、子供が喜ぶからとiPadやiPod touchを買い与えてしまってはいけないと思う。

使う時間などのルールを定めて、それを徹底するならともかく、「学力向上に効果があるから」というだけで買い与えてしまうのも無責任である。

ここまでの話を読み返すと、iPadを子供に与えないほうが良いように聞こえるかもしれないが、決してそんなことを言いたいわけではない。

子供の吸収力は凄いので、使うべきポイントさえ見極めれば、有効なツールになる。

ただ、教育の本来の意味である「その人を望ましい方向へ変化させること」という視点が抜け落ちて、単に「学力向上のため」だけにiPad導入が進んではいけないと危惧している。

つまり、親も学校も闇雲に道具を与えるのではなく、iPadを活用するなら「しっかりとした理念やルールを考える必要がある」というわけだ。

さらに書いておくと、現在の教育はiPad導入以前の段階だと考えている。

教師や親に「しっかりとした理念やルールを考えてほしい」といっても、その答えに乏しいのが現状だろう。

もちろん、素晴らしい教師はたくさんいらっしゃるし、良い学校もたくさんある。素晴らしき父母、家庭もたくさんある。

しかし、社会全体的に見れば、まだまだ子供が子供を育てているような事例は見受けられるし、子供のような教師も少なくない。

それらの原因がどこにあるかといえば、やはり「教育にある」と筆者は思う。

では、その教育を考えるべきところは、一体どこなのだろうか。

学校などの教育機関だろうか。

それらを管轄・統制するはずの日本政府だろうか。

学校や教師、政府の役割は、もちろん大きい。

しかし、先ほど述べたように、教育の最も大きな役割は、子供を産み育て、子供と共に生活している「親」にある。

教育について一番考える必要があるのは、学校でも教師でも、ましてや政府でもなく、今生きている我々「親世代の人間」なのである。

教育へのiPad導入を考える前に、親が子供のことをもっと深く、広い視点で考えられているのか。

“その子に宿る素晴らしさ”を心の底から認めて、誉めて、引き出してあげられているのか。

何より、自分自身が人生を喜び、勉強を楽しんでいるのかどうか。

そんなことをよく考えて生活していけば、子供の学力なんてものは、それに伴って上がっていくものなのである。

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