シュプスタ

iPadと子供の勉強[教育①]

Appleが教育に関しての発表を行い、「教科書を再定義する」と言ってから、早1ヶ月。

以前も少し触れたように、教育が大事な分野であるという筆者の考えは変わらない。

当サイトは、「最高のライフスタイル」をテーマに更新していくサイトなので、生活に関わる“教育”について論じておくのも無駄ではないと思う。

一旦書き始めたら長くなってしまったのだが、新型iPadが出る前の一つの話題として書き残しておこう。

広義の意味での教育とは

教育について考えるに先だって、iPhoneの大辞林で意味を検索してみた。

教育とは、
「他人に対して意図的な働きかけを行うことによって,その人を望ましい方向へ変化させること。広義には,人間形成に作用するすべての精神的影響をいう。」とある。

広義の意味は非常に広く、「人間形成に作用するすべての精神的影響」とのことだ。

この意味で考えると、人として生きる以上「常に教育を受けている」ということになる。

すなわち、人が生きる以上、何かしらの精神的影響を受け、育つ。

あらゆる出来事が「人間形成に作用する精神的影響(教育)だ」といえる。

人間形成と関係ない出来事が何一つ存在しないとすれば、広義の意味での教育が行われない出来事も何一つない。

このことは否定できぬ事実だろう。

人に会えば必ず何らかの刺激を受けるし、本を読めば知らぬことばかりだ。

テレビ番組の内容によって受ける影響も違うし、新聞や広告といったメディアからも何かを教えられる。

衣食住、教わらないことなど何一つなく、生活そのものが自分を育てている。

「別に私は何も教わっていない」なんて人も、周りから何らかの教育を受けて生きている。

繰り返しになるが、人は生活している以上、様々な出来事から「何かしらの精神的影響」を受けているのである。

つまり、広義の意味で考えると、教育とはライフスタイルそのものといってもよい。

最近、ライフログが人気のようだが、我々はそれによって何らかの刺激を受け、何かしら教わっているというわけだ。

簡単に言えば、「あらゆる出来事が我々に何かを教えてくれている。」

このことを、はじめに確認しておきたい。

狭義の意味での教育を考える

前置きが長くなったが、ここからが今回の本題である。

再び、大辞林を振り返ってみると、

教育とは、
「他人に対して意図的な働きかけを行うことによって,その人を望ましい方向へ変化させること。」と書いてある。

通常、“教育”という言葉は、「学校教育」や「子供の教育」という意味で使われることが多いと思う。

しかし、本来の意味は「他人に対しての意図的な働きかけ」である。

つまり、子供に対してのみでなく、言葉自体はあらゆる人に当てはまるわけだ。

もちろん、この場であらゆる人の教育について論じていては範囲が広くなりすぎる。

今回はタイトルの通り「学校教育」や「子供の教育」に的を絞って考えていきたい。

学校教育の場でのiPad使用について

この記事を書こうと思ったのは、以下のような記事をよく目にするようになったからだ。

米学習調査、iPad活用が幼児の学力向上に効果

まず、結論から言うと、筆者は子供が「iPadを活用する」ことに疑問を感じている。

この記事の結果に書かれているように

「iPadを活用すると子供の学力が上がる。」

それはいい。

子供はiPadに夢中になり、楽しく勉強する。

調査するまでもなく、成績が上がるのも当然といえば当然だろう。

しかし、こういった記事を読めば読むほど「それでいいのだろうか」という違和感が生じてくる。

たとえば、いい大人が電車内でポケットゲームに夢中な姿を想像してみてほしい。

周りの声は聞こえず、他を省みずにゲームのボタンを激しく連打している。

そんな大人の姿を見たとき、残念に思うのは筆者だけではないはずだ。

その理由は明らかである。

「周囲への感情が欠けている」

周りの人への配慮がなく、人のことを考えていないように見える。

つまり、完全に自分だけの世界に突入してしまっている状態である。

いうなれば、その人は、道具を使っているのではなく、「道具に使われている状態」といえる。

子供がiPadに夢中になるのは、これに似ていると思う。

自己統制ができぬ者は、機械を使うのではなく使われてしまう。

機械に使われてしまうと、周囲への配慮が欠け、人の気持ちを汲むこともなく、自己の作りあげたバーチャル世界に没入してしまう。

もちろん、ゲームの知識が増えるのと同じように、学力は上がるだろう。

しかし、そこからは人間的な成長、精神的な向上などは見込めないと思う。

「その人を望ましい方向へ変化させること」が教育ならば、やはり一番大事なのはその人の“人格の向上”である。

どれだけ勉強が出来ても、スポーツが出来ても、人間的な温かみや精神的深さのない人には魅力を感じない。

それは、人間が本質的には「精神的な向上」を求めているからである。

まじめな話、精神的に豊かな人は放っておいても勉強する。

「学力、学力!」と張り切っても学力が上がらないのは、“人格的な向上”を目指さず、心が未熟なままで学力向上を目指すからである。

筆者は、iPadの導入よりも、むしろその辺の基本的な心を養うほうが必要だと考える。

精神的な豊かさは、必ず形(学力)に顕れてくる。

教師には自らの人格に磨きをかけ、もっと「勉強の素晴らしさや楽しさ」を子供たちに語って、心の修養に力を入れて欲しいものだ。

教師が使うなら良し

筆者はiPadを教育現場に持ち込むなと言いたいのではない。

教師がしっかりと分かった上で授業に活用するならば、素晴らしいツールになると思う。

むしろ、積極的に活用してほしい。

子供たちの興味を引き出すのはもちろん、勉強意欲を高めることも可能になるはずだ。

問題にしているのは、深く考えもせず、子供たちにむやみやたらと配って使うことである。

子供たちに配れば、勉強のツールではなく、おもちゃになる。

ゲームと同じようなおもちゃを与えれば、表面上の学力は上がるかもしれない。

しかし、その子供を本当に「望ましい方向へ変化させよう」と思ったならば、ゲームやiPadなどのおもちゃより“もっと大事なこと”があるはずなのである。

モバイルバージョンを終了