吾々が生きていると云うことは、何者かが吾々を造ったということである。

皆一様に2つの目をもち、1つずつの鼻と口をもち、手と足があって体が成り立っているのは、そこに一定の設計図があるからに違いない。

誰かが設計図を考えなければ家が立たないのと同じように、誰かが人間という設計図を考えなければ人間の体は成り立たない。

そこに「神の智慧が働いている」と自然に思うことができる人は幸せな人である。

実際、そう考えるのが自然であるのに、何らかの障害でそう考えられなくなっている人が多いからだ。


その障害とは何であるか。

それは世間一般の偏見であったり、自分一人で生きているという錯覚だったり、その他神秘的な感情を妨げるつまらない情報だろう。

事実、人間は自然界に生かされ、内に生かす力が働いている。

吾々を生かそう、生かそうとする力は、意識するしないに関わらず、すべての人に宿っている。

人間はいくら物質的に豊かになっても、何か大きく立身出世することになっても、この「生かされている」という一点において欠けていたならば何も得るところはないのである。

現代人に大切なことは、物質的な豊かさを追い求めることではない。

神秘的な感情を奪ってしまうつまらない情報を捨て、都会に住んでいてはなかなか感じられない自然との一体感や、生かされているという事実を実感することが大切なのである。

自動装置は誰が造ったか
植物の向日性や、同化作用、呼吸作用はいずれも科学的法則に支配されている。日光を受けて光の方向を向くのは日光に刺激されてアウクシンと云う物質が出来る為であってそれは物理化学的な反応で、精神などの働きによるものではないと唯物論者は言うけれども、日光を受ければアウクシンと云う物質を生ずるような微妙な構造を作り、その微少量の物質の作用によって光へ自動的に向く様な構造を造るのは中々偶然に出来るものではない。造り主の智慧を必要とする。

(『新版光明法語 道の巻』P.208より)