若し、貴方が人のために尽そう。人に献げたいと云う方向に、あなたの行動が、又は職業が働いていますならば、必ず貴方は神に祝福されるのであります。若し貴方が、愛されたいと思うならば、それは自分に「愛」を奪いとろうとする考えでありますから、「愛」が得られないことになるかも知れないのです。しかし「愛してあげよう」と云う心になれば、あなたは屹度その人から、(でなければ、他の人から)愛されることになるのであります。「愛されたいから愛しよう」と云うのでは、まだ利己が先に立っていますから効果が少いのであります。毛筋ほども利己の考えを取去り、純粋に愛したときに何が起るかやって見ましょう。
(『幸福を招く365章』P.11より)
人を愛するため、人は生まれた。
昔、そんな歌詞の歌があったが、それはそのまま真実だと筆者は思う。
キレイごとではない。
吾々は、愛するために生まれたのである。
嘘ではない。本当である。
吾々は、人を愛したくてたまらなのだ。
人だけではない。動物も植物も、すべてのものを愛したくてたまらない。
そういう本質を持っているのである。
だから、人を愛せたときに喜びを感じるし、幸せを感じる。
人のためになったとき、心からの感動を味わう。
そのことはそのまま、吾々が「愛するために生まれてきた」という証拠なのである。
「いやー、そんなことない。誰かが苦しんでいるのを見ると、嬉しくてたまらないんだ。」なんていう人がいるかもしれない。
しかし、それは偽物の自分である。
頭でそう考えることはできても、心の底の底からの喜びは湧いてこない。
どこか寂しく、どこか虚しい。
なんとなくつまらない感じを覚えるし、このままでよいのかな、と心の奥底は思っているものだ。
それも吾々が「愛するために生まれてきた」という証拠なのである。
人を本当に愛せたとき、人は心からの幸せを感じる。これは一つの真理なのだ。
本当の愛は利己的な考えが伴わない。
自分の利益より人の利益を考える。人の喜ぶことを考える。そこに見返りを求める心はないのものである。
少しでもそれが実践できたとき、吾々のうちに宿る神が祝福してくれる。
「よくやった!よくやった!」とほめてくれる。そこに本当の幸せがある。
そんな声なき声を聴き、純粋に愛せる人を目指して生きたい。