シュプスタ

罪に悩まず

自分の罪を赦す
人間の実相は完全円満であって、罪はないのである。罪を憎み、罪をつかみ、罪に低徊する限りに於いて、その人の心は罪の捕虜となる。罪の捕虜となる限りに於いて、その人は再び罪を犯すことになるのである。罪の観念に伴う自己処罰は、病気、災難、被害等の形式であらわれて来ることがあるけれども、再びその人に「罪を重ねさす」ことによっていつまでも「罪人」の状態に留置すると云う形式であらわれて来ることもあるのである。そこで「人の罪を赦す」と云うことの中には「自分の罪を赦す」と云う重大な項目を忘れてはならないのである。自分を「罪人だ、罪人だ」とクヨクヨ思うことは、自分自身に対して「汝は罪人なり、悪のほか何も出来ない」と催眠術で暗示をかけているのと同じことになるのである。その暗示にかかると、実際その人は「悪のほか、何もできない状態」にならされるのである。このような自己暗示によって、悪と罪より脱却できない人が随分たくさんあるのである。
(『新版希望を叶える365章』P.152より)


おはようございます。

冒頭に掲げた言葉に書かれているように、悪と罪より脱却できない人というのは多いものです。

自分が罪人だと思っている限りに於いて、その人は幸せになれるものではありません。

また、他人を罪人だと思って、恨み憎んでいるところに喜びはやってきません。

吾々は自分を赦し、他人をも赦さなければ、真の幸せを得ることができないようになっています。

そんなことをいっても、赦せないものは赦せない。

人はそう言うかもしれません。

たしかに、とても赦せない行為や腹立たしいこと、憎むべきものが目の前にあらわれれば、それどころではなくなるものでしょう。

しかし、そんな状態では、やはり幸せはやってこないのです。

それでは、どうすればよいのでしょうか?

そのジレンマを解決する方法が冒頭に掲げた文章に書かれてあります。

たとえ、過ちや失敗で重い罪を背負ったとしても、吾々の内にはいまだかつて罪を犯すことのなき実相があり、神が宿っているのです。

仮に、人からひどい仕打ちを受け、その行為が赦しがたきものであったとしても、彼らの内にもいまだかつて罪を犯すことのなき実相があり、神が宿っているのです。

このことを知ることが何よりも肝心なことでしょう。

むろん、この目に見える世界で過ちや失敗をして、他人に迷惑をかけてしまったら、それは償わなければなりません。

罪が本来ないからこそ、本物をあらわすために罪を償う必要があるのです。

間違えたらやり直せばよい。

失敗したら成功に変えていけばよい。

間違ったものを整え、失敗してきたものが成功へと変わった時、吾々は喜びを感じます。

自分の罪と他人の罪を心から赦せた時に、魂の底からの喜びを感じることができる。

それは、吾々の内に宿る神が、善なる自分が、その努力の過程を喜んでいるということなのです。



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